現代の建築の始まり…江戸の技を受け継ぐ大工が作った日本のヨーロッパとは?【建築の話】
擬洋風建築は、明治時代の急速な西洋化のなかでうまれた独特の建築様式です。明治に入り、日本でも外国人居留地などで洋風住宅が建つようになりましたが、それを建設する外国人の職人はほとんどいませんでした。
そこで、日本の大工や左官職人、木彫刻師たちが見よう見まねで西洋風の外観を和の技術を用いてつくったのが、擬洋風建築の始まりです。
2026年3月3日 8時40分 ラブすぽ
擬洋風建築
擬洋風建築(ぎようふうけんちく)の記事が掲載されているのはビックリですが、日本の建築がいわゆる木造の日本作法から一歩踏み出した時代として、その建築物はどれも美しく興味深いものばかりです。
それまでの日本では、神社仏閣から茶室、数寄屋などの作法がありましたが、一般庶民の暮らす住宅とは全く別物で、ほとんどの国民はまだ雨風しのげれば良い掘っ立て小屋に近い家に暮らしていました。これまでに見たことの無い洋風建築は時代の変化を感じたことでしょう。
ウィキ先生によれば、擬洋風建築とは、幕末から明治時代初期の日本において、主として近世以来の技術を身につけた大工棟梁によって設計施工された建築である。従来の木造日本建築に西洋建築の特徴的意匠や、時には中国風の要素を混合し、庶民に文明開化の息吹を伝えようと各地に建設された。明治の開始と共に生まれた擬洋風建築は、1877年(明治10年)前後にピークを迎え、1887年(明治20年)以降に建築が途絶えており、その時期は文明開化と重なっている。と書かれていました。
私の見た疑洋風建築では、北海道に行ったときに函館と札幌で何件か見学したり、長崎に行った時にも見学した記憶があります。
擬洋風建築は当時「西洋造」や「洋風家造」「西洋型家屋ニ模」したもの「洋風模造」などと呼ばれていたそうで、同時代から「模造」だと認識されていたが、これは本来石造、煉瓦造で造られるべきものを木造で代用したもの、つまり様式上の模造ではなく構造上の模造として認識されていた。ということです。
その目的と技術
記事にもありましたが、文明開化の素晴らしさを全国各地に広めたいという明治政府の方針もあり、地方都市の銀行、病院、各種公共施設の多くがこの様式でつくられました。一見すると石造のようですが、そのほとんどが木造です。また、細部には和の技術がつかわれています。
この辺りは、今の木造建築にもつながるところがあって、コンクリート打ち放し風や石貼り風などの外装サイディングは、当時と同じ発想のように思います。
当時の見どころの一つは、石の表現です。石造建築では力学的に重要な壁の隅だけ特別な石の積み方をし、コーナーストーンと呼んでいます。擬洋風建築では、この特徴を和の技術である漆喰などで表現しているのです。またギリシャ・ローマ様式の石造柱頭も、装飾によって見事に模しています。とのこと。
資料を紐解いてみますと、全国各地にこの同時期に建てられた疑洋風建築があったようですし、なかには現存するものもあり、それだけ明治政府が力を入れていたということがわかります。
さらに、もう一つの見どころは、独自性です。たとえば、玄関に唐破風屋根を設けた和・洋・漢折衷の建築や、16角形でドームを表現したものなど、洋風のコピーが少ないのに洋風に見えるのが擬洋風建築の特徴なのです。こうした独自の創意工夫や大工の遊び心が盛り込まれているのも魅力の一つです。
日本には、中国文化の影響を強く受けながら、独自の文化を育んできた長い歴史があります。西洋からきたスタイルをただ受け入れるだけでなく、自国の技術や文化を混ぜ合わせ、こうした新しい様式を誕生させるのは、日本の得意とするところだったといえるでしょう。と書かれていました。
新しい時代にRC住宅
ところで、日本初の全鉄筋コンクリート造オフィスビルといえば、三井物産横浜ビル(1911年・明治44年竣工)ですが、文明開化によって国民の意識や価値観が大きく変化していく中で、建築の考え方もまた同様に変わっていったようです。
有名なところでは、本願寺函館別院本堂は,明治 45 年着工,大正4年(1915)竣工の鉄筋コンクリート造寺院建築ですし、さらに皆さんご存じの「軍艦島(端島)30号棟」は、日本初の鉄筋コンクリート造集合住宅(アパート)として1916年(大正5年・大正初期)の竣工です。
明治から大正の歴史は、ちょっと触れるだけでも魅力的で、わくわくとドキドキを感じてしまいますが、きっと今も同じような時代の空気感かもしれません。なんとか風の模造ではなく、本物が選ばれる時代になるように思います。
新しい時代に、RC住宅がオススメです。





